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おなかのはらぺこ日記

好きなものには、基本贔屓目。

落書き小説「ヴィーナス/女王蜂」

彼女は唇に柔らかいピンクの口紅をぽてっと塗り、僕に向かって、静かに口角を上げる。開いた口の両端には、小さく八重歯が光る。

僕は、彼女から好意など抱かれていないことを知っていたし、彼女も僕が彼女に対して特別な感情を持っていないことを知っていた。

筈だった。

彼女の八重歯は、さっきより更に煌き、イミテーションの宝石のようにも見える。彼女の唇が、徐々に僕に近付いてきていることは明らかで、キスをしようとしていることも容易に分かる。彼女が言う。


「強がる必要は無いのよ」


彼女の周りには、常に男が付いて歩いていたし、彼女自身も自分自身の美貌を誰よりも自覚し、その美貌を利用していた。そんな彼女のことが、僕はあまり好きでは無かった。

先程から降り始めた雨は強さを増し、僕ら二人を覆うビニール傘を境界線にするかのように、周りの景色ばかりがモザイクを掛けたように不明瞭になっていく。

思えば、彼女からの誘いを受けてしまったのが、今夜の全ての始まりだった。僕らはたまに、本当にたまに、半年に一度くらいには連絡を取り合う仲だったし、今夜は特に予定も入っていなかったから、彼女からの「今夜、ご飯でも行きませんか?」という誘いを断れず、半ば諦めるように約束を交わした。だけど、なるべく僕の家に近い場所で待ち合わせをし、軽く食事をしてさっさと帰ろうと思っていた。

あと数分で、今日という日が終わり、明日を迎える。理論的には日付が変わるが、僕らを覆うこの街は、当分今日という日が続きそうなくらいに騒がしい。僕はこんなに遅くまで二人でいようなんて思ってもいなかった。
迫ってくる彼女の唇。
降り続ける雨。
長く鋭い彼女の睫毛。
熱を帯びる街。
懐かしい香水の香り。
触れる唇と唇。
ふと、この世の全てが無機物になったような錯覚に陥る。この地球上に存在する全てのものが、燃やしても土に還らずに、形は変われどずっと残っていてくれるんじゃないか、と。ビニール傘の境界線に囲まれ、僕ら二人だけが今日も、明日も存在しない、日付の無い空間にいるような気分になる。

そういえば、昔彼女と初めて出会った頃、「キスをしたら、それは男と女の関係だよね。だから、もしも、本当にもしも、私があなたとキスをしたりしたら、きちんと私と付き合ってよね」と、彼女が僕に冗談半分で話したことがあった。

唇を離すと、彼女は静かに俯く。彼女の頬に一筋の光が流れる。彼女の肩と髪は、雨で少し湿っていたが、その頬の光は雨ではないだろう。強がっていたのは僕ではなく、彼女だったのかも知れない。僕は、彼女が顔を上げるまで待っていようと思った。

久しぶりに会った彼女は唐突に「彼氏に振られた」と切り出してきた。話を聞いてみると、その彼とは結婚まで考えて付き合っていたそうだ。失恋した後、冷たいコンクリートのマンションで、一人になりたくなかったから僕に連絡をしたんだ、と正直に話す彼女が、数年前の彼女より綺麗に見える僕がいた。

いつしか傘を差さなくても大丈夫なくらいに、雨が弱まっている。日付が変わってから数時間経った、繁華街から少し路地に入った、ビルとビルの間に立つ僕ら二人の周りには、誰もいなくなっている。俯いていた顔を上げ、彼女は口を開く。


「最後の最後の二人」